久々に小説でも読んでみて・・・touching off something

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~終末観~

9月だというのに猛暑日が続く。
7月より暑い。

10代の頃に読んだ山川健一著「水晶の夜」が思い出される。

街路樹は枯れはじめ、森全体が滅びようとしている。街中には密告が蔓延し、徘徊する人々はどうしようもなく体たらくで生きざまを失っている。とうとう狂い出した自然と人間。森の“監視員”としての任務を立派に遂行しようとしていた明夫のもとに突然まい込んだ一通の召集令状。それは森に火を放ち、殺人者になることを意味していた―。現代を鋭く見据え、未来を透視し、生きる意味を極限の場で実現しようとした近未来小説。1988年。

そんな小説があったんだよと大学時代からの女友達に話したら「終末のフールが思い出されるわ」と教えられたのが去年だったか、一昨年だったか。


絵本業界と司書業務に携わる読者家の彼女のお勧めならと、思ったものの1年か2年なのか放っておいたやりとり。

それが、この猛暑のせいで思い出したようで、書店に寄った際、久々に文庫コーナーに足を運んだ。
関係ないけど、コアなロックファンで、語学にもたけている女友達が日本の流行小説を読むとは思ってもいなかった。それに、食事をしたことはあるけど手を繋いだこともない彼女のお勧めを読んでみようと思った自分が不思議だった。記憶が正しければ彼女が僕に小説を薦めたのはこの20年ほどの(手も繋いだことのない)付き合いの中で、たぶん、初めてのこと。




~「DOG DAYS」~
フールっていうのはFOOL?今自分が生きてる時代が終末なのかどうか、考えることはあまり無い…最近は。
「FOOL ON THE HILL」中学生の時に好きだった曲。「FOOLS MATE」には写真載り損ねた。ま、どうでも良いか。

ただ、こう暑いとニュースキャスターが
「今私達がこうしてる間にも私達を取り巻く地球環境は凄まじく変化しています。もう取り返しのつかないところまで来ているのかもしれません・・・・」

しばらくタメてから

「では次のニュースです」

と言うパフォーマンスに馬鹿か?と思う。
動じないけど、夜釣りにも、バイクでの夜走りも行く気にならないどうしようもないこの暑さには

「暑い、やってらんないね。もう終わりなんじゃない?この星」

という気分にはなる。

暑くて、眠つけず、遥か昔の受験勉強の年がこんな暑さでなくて良かったと思っても眠れやしない。18歳の夏休み、図書館に行っても勉強などせずホトケの書いた「DOGDAYS」を読んで中古レコード屋にまだ聞いたことのないブルーズのレコードを買いに行った一日を思い出す。ほかの日も大抵そんな感じ。ただただ無為に過ごした夏の日。

受験勉強はしなかったけど受験の日が近づいた時や、なぜか受かった大学時代も終わり仕方なく社会人にならなきゃと就職したときの方が個人的には今なんかよりずっと終末気分ではあった。

タイトルに惹かれるところがなかったのか、とにかく「終末のフール」という題名の小説は教えられてから1年か2年だか忘れたけど読もうと思わなかったし、そもそもこの数年新しい小説なんて読まなくなっていた。

だから今回本屋の文庫コーナーに行ったのはこの猛暑日で思い出された「水晶の夜」という小説があったから、ということになる。

~FISH STORY~
書店で「終末のフール」を手に取り、この作家は他になんて題名の小説を出してるんだ?と思い隣に平積みされていたので「フィッシュストーリー」という短編をも買った。
ああ、映画になった作品か。観てないけど。
ゴールデンスランバー、重力ピエロもこの作家なんだ・・・観てないけど。

「フィッシュストーリー」はさっさと読み終わった。
「終末のフール」の方は全部で8章からなるのだけど題一章と第二章の数ページだけ読んだところで忙しくなり、ページが進んでない。全部読んだらそれなりの恍惚感が訪れるのかもしれないから楽しみにはしている。

「フィッシュストーリー」、嫌いじゃなかった。特別良くもなかったけど「そういうことってあるよね」そんな気持ちになるし、「それくらいのこと無いと人生つまんないしね」とも思う。なかば祈りを込めて。
小説より自分のストーリーの方が面白くありたいってものがホンネ。

この小説に行きついたのは「終末のフール」を大学時代の女友達(手も繋いだこと無い)が過去に勧めてくれたからで、それは終末なではないか?と思わせる猛暑日が続き、昔読んだ小説「水晶の夜」を思い出したからと考えてみた。

偶然ともこじつけともとれる関係性を結ぶ、こういった遊びが僕は結構好きだ。パルプフィクションとか、小学生のとき夢中になったオー・ヘンリーとか。できれば人生のところどころにそんなストーリーが織り交ぜられていて欲しい。



~小説のような涼しさ 「お礼ならアノヒトのお父さんに」~

それにしても暑い。
暑い夏でも河原で釣りをしていて迎える朝、草露の煌めき、もしくは夜通しオートバイで走り通してたどり着く海、波打ち際に漂うコロン。
そんな五感で感じる朝を久しく迎えていない。終末は来ないとしてもこのままでは自分の中でなにかが終わってしまうのではないかという気持ちになる。

「小説のような涼しさだよ」

アノヒトのお父さまがそう形容したというこの時期の軽井沢。
涼しさのなかで朝食でも取るかな、そう思い立って真夜中にヘルメットを取り出し、ブーツを履いてバイクに跨る。グローブも嵌める。
「この暑いのにヘルメット・ブーツ・グローブか」と呟く。
Tシャツの下はすでに汗が噴き出していた。午前4時30分。

練馬インターから関越に乗り1時間20分ほどで雲場池の畔に着いた。
ずいぶん長い間この池の畔へは来ていなかったけどイメージしていた通りの透き通った、静かなエネルギーを湛えた場所だ。
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古い記憶を辿ってみる。夏ではなく冬だったかもしれない。
けれど今朝辿りついたこの場所は期待を裏切らなかった。
目的地にして良かったと思う。今回のショートトリップは成功だ。

~目的地~
オートバイで辿り着く場所、今まで数々の「目的地」へ訪れた。
「目的地」に長くいたことはあまり無いし、「目的地」そのものが感動を呼び起こしたことは少ない。あらかじめ情報として入っている予定調和な結末だもの。
山頂に辿りついたり、景勝地へ到着したときというのは一日の仕事が終わったり、長旅から帰ってきたときのホッとした感覚程度のもので後々思い出されたり、人に語ったりするような想い出とはならないことが殆ど。

ショートトリップで記憶に残るのは「目的地」よりも事前情報としてインプットされていなかった驚きだったり、ガイドブックやネットレポートにも扱われない、「目的」にも「予定」にも無い「おまけみたいな」景色や出来事の方。
その「おまけみたいな」出来事がショートトリップそのものを面白くし、記憶に色濃く残す役割を果たす。

映画や小説でそれとなく期待する「次の展開」、「結末」とは別に「ちょっとした台詞」に出会ったりすると心地良い。それに似てる。
心地良い「ちょっとした台詞」それは作者の意図通り嵌められてのか、作者の感性と重なると思うのは思い上がりなのか、気になるけれど、くすぐられる。
そして、似つかわしくないのはわかっていながらも日常生活で使ってみたくなったり、実は使ってしまったりする。恥ずかしい。「礼なら、○○に言いな」ってヤツ。

さて「目的地」。
「目的地」は方向性、きっかけみたいなもので、辿りついたあとは通過点になる。
先に書いたように「おまけみたいな」出来事に出会ってしまうと、そのときの行動によっては通過さえしない。
次の目的やその後の行動を決めるのは「おまけみたいな」出来事の方。
目的地があった方が短期的なモチベーションは保てるかもしれないと思うけど。
この書き散らしのように、僕の行動もそんな感じ。
だけど、いつも準備はしているつもり。備えているつもり。きっと真の目的地があるに違いない・・・なんて書くと笑われるかな。



~準備~
「小説のような涼しさ」という表現を数日前に聞いて、ちょっと気になったのがきっかけとなった今回のショートトリップ。
でも、、準備は出来ていた。
ちょっとした時間ができた時、ちょっと良い情報を耳にした時、バイクが動かない、ではいただけない。愉しむことにつながるのだから出来る限り、日々の準備は怠ってはいない。
先週プラグを交換し、オイルをチェック。ブレーキバッドの面取りも済ませている。
ここ2年はランニングで足腰も調子を保っている。


「フィッシュストーリー」に「正義の味方になるように父親に育てられた」と瀬川という数学教師が登場する。
正義(強さを保ち、動じずに見据えるこころ)はこの作家のテーマの一つでもあるらしい。

彼がハイジャックをあっというまに片づけてしまう十分前に、橘麻美(のちにネットテロの企みから世界を救う)に自分の生い立ちの一部を語った。
そして、「正義の味方って漠然としてるじゃないですか」との疑問に「父が言うには、大事なのは、職業や肩書きではなくて、準備だ、ということらしくて」と答える。

このエピソードは結構好きだなと思った・・・ら、解説者も似たようなこと書いていてなんだかガッカリ。

「弟子に心の準備が出来たとき、師は現れる」(TAO)的なイメージも含まれるのかもしれない。
こうやって勝手に自分の世界観の中に引き込むのはが僕は得意だ。
運命論者ではないのだけど、必然と偶然について感じたりするのは好きなほうでもある。

ならば・・・、1年だか2年だか前に教わった小説を思い出し、読んでみようと思ったのは「小説のような涼しさ」って言葉に触発されたからかもしれないとまで考えてみる。

・・・とにかく、朝霧の漂う雲場池は良かった。
アノヒトのお父さまは雲場池とは言わなかったはずだけど、僕は自分の中では軽井沢=雲場池・万平ホテル・鹿島の森のフレンチトーストなのでね、素晴らしい朝を迎えることができた。


まあ、こんな風にどこかで起きたなにかがなぜか他の時間、場所で作用する。
歯車が回りはじめ、意図しなかったような事柄、結果に影響する偶然を「縁」と呼んだりもするのだろう。

縁となるか、ならないか、の「差」がなんなのかは良く分からないけれど僕は名刺に「これも何かのご縁です」と刻んでいる。思い込みだろうか。

~治療家~
雲場池を後にしようとした午前8時過ぎ、携帯が鳴る。患者さんからの治療依頼の連絡。
休みにしても良かったのだけど結構朝の数時間で満足したし、2時間もあれば帰宅できるから依頼を受けた。

トンボの湯につかる予定はやめて、とんぼ返りして治療にあたることにした。
今回も目的の一つは通過さえしなかった、でもこれは「おまけみたいな」ではなくて仕事。

陽が昇りきった中、妙義山を横目に高速に乗り、熱の塊のような都心へ向かう。

「このバイクの発する熱もまた、この猛暑日の一因なんだろうなぁ」

とか考えてみたりもしたけれど今日で二回目となる患者さんの変化が前回と比べてどうなっているか、今日はどう治療しようか、シュミレーションしながら高速道路をトップギア3500~4000回転弱で急いだ。

練馬インターを降りると混雑し始めている目白通り、環七はとにかく暑い。

まだエアコンがしっかり効いていない治療室で準備をしながら思うのは、今朝の、朝霧が漂う雲場池。

それこそ、まるで小説を読み終わってページを閉じたときのような気分だ。

日照りが続いて狂っているのは、都会に住む僕たちと、ある種の小説の中だけじゃないかと思えてくる。
あの澄んだ池の水を思いだす限りはこの地球は大丈夫だと思える。


僕がこの道に入ったのは就職したものの、いまいち自分のやっていることがこの先の満足に繋がることなのかわからなかったし、周りの友人、知人、弟他、皆自分の道を求めていたのに自分だけ宙ぶらりんな感じがして嫌だったかとき、なにか自分のやれることを突き詰めようと思ったから。
サラリーマンやっても体力的に不足していて、ひたすら追いつくようにと仕事して、休みの日は動けなくなる自分ってのが許せなかったし、全部が全部自分に嘘ついていたような気分で生活しているのが我慢できなくなっていた。
振り返ると、狂っていたなあと思うほかない。

そして、いろんな条件が重なってきて、決断するしか無い時に思い出した。

「きっと良い治療家になれるよ」といった内容の言葉を大学時代のアノヒトに学食の片隅で言われたコト。

本当はもう少し違った言葉だったし、その言葉を書くのも学食でのシチュエーションを説明するのも恥ずかしいので止めておくけど、あの言葉がを思い出さなかったら今治療家として生活していなかったと思う。

背中を押ししてもらったと今も思っている。


~お礼~
患者さんからお礼を言われることがある。
良くなったことを一緒に喜べるのは治療家としての愉しみだし、悪くない。礼儀としてのお礼も言われないような治療家にはなりたくないけれど、でもなんだかくすぐったい気もする。
お金を頂いているのだし、僕はそれで生活し家賃・光熱費を支払い、鍼灸道具を買ったり、講習会へ参加したり、奨学金を返し、釣り具やバイクのメンテナンス費用を得たりしているのだからお礼をいうのはこちらである。
「フィッシュストーリー」の登場人物の一人、先にも書いた川瀬という青年が「礼なら父に」という台詞があって、これはいいなと思った。

僕の場合はどうだろう?

頭脳明晰で歴史好きな僕の父は本を良く買ってくれたし、日本史に興味を持った時にはよく勉強の相手をしてくれた。祖父は国文学者だったから古文を教わったりした。その影響か僕は小学生のころから勉強せずとも古いことを知ることや漢字の多い文は苦にならない(笑) 母方の祖父は遊びに行った時よく「やいと」(お灸)を祖母にやらせていたし、そのやいとを撚って火をつけていた祖母は僕が誤って引き戸に指を挟んで血豆を作ったとき焼き鍼で抜いてくれた。そんな記憶を辿るとご先祖さま(ルーツ)は大切にしたいものだと思うようになった。

では「礼なら両親に」と言うか、いや、これからはお礼を言われたら「礼なら大学時代のアノヒトに」と心の中でつぶやこう。(手もつないだことのない女友達のことではない)

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by fuji69fes | 2010-09-06 12:12 | more about ...
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